私にとっての「担当」という言葉
最近こんな記事に出会った。
中学生の頃、私は文芸部に所属していて、よく話を書いては友達に挿し絵を頼んでいた。あの頃がとても懐かしくなって、ジャニヲタ文芸部に参加したくなってしまった。
私が最初に「担当」を名乗ったのは山田涼介だった。よく言えば一途、悪く言えば他の人は眼中に無い、といった具合に山田にのめり込んでいた。それまでの私はジャニーズに全くと言っていいほど興味がなく、山田をきっかけに飛び込んだ世界は自分にとって未知の事ばかりで、全てが楽しく思えた。ドラマにテレビに雑誌。頻繁に色々な媒体で目に出来ることがとても幸せだった。しかしあの時の私はHey!Say!JUMPが好きだったのではなく、山田が好きだったのだ。別に曲や他のメンバーが嫌いという訳ではなかったが、グループにはさほど興味がなかった。歌番組でも山田しか見ていなかった。他のメンバーがソロでカメラに抜かれている時、私は一体何を考えていたのだろう。思い出せない。何も考えていなかったのかもしれない。
そんな私だったが、ある日事件が起きる。キスマイに惹かれてしまったのだ。あんなに山田山田うるさかったはずなのに、目の前のテレビに映るキスマイに心を奪われていた。そして新しい担当を決めようとした時、決められないことに気づいた。誰か一人は選べない。そう思った私はキスマイというグループを応援しようと決意した。
担当という言葉から解放された時、新しい事が見えるようになった。誰か1人を目で追わない代わりに全体を見るようになった。あの時は気づけなかった「この曲のこの部分カッコいいな」とか「この人いい顔してるな」とかそういう面で見れるようになった。
私にとって担当という言葉は視野を狭くするものだったに違いない。担当=この人だけを応援する、という一種の固定観念のようなものにとらわれて、あらゆる角度から物事を見れなくなっていた。担当を名乗らなくなった今、ジャニヲタでいることがとても楽しい。ジャニーズそれぞれの良いところが沢山発見できるからだ。